2023年、建築界の巨匠ピーター・ズントーがインドの地を初めて踏んだ。バンガロールで行われた講演と質疑応答は、世界中の建築家、批評家、そして建築愛好家の注目を集めた。本稿では、その内容を深掘りし、ズントーの建築哲学を現象学、場所性、素材論、光と影の演出といった専門的な観点から分析することで、現代建築における彼の特異性と意義を明らかにする。
Contents
インドとの邂逅:コルビュジエ、ドシへの共感と新たな発見
講演冒頭、ズントーはインドの印象について語り、都市の密度、活気、人々の温かさに触れつつ、近代建築の巨匠ル・コルビュジエとインドの巨匠バルクリシュナ・ドシの作品に深い感銘を受けたことを明かした。特に、チャンディーガルの建築群やIIMバンガロール校舎を訪れた経験は、彼自身の建築哲学との共鳴を生み出し、新たなインスピレーションを与えたと言えるだろう。
建築家への道:運命の岐路と「場所の精神」との邂逅
ズントーの建築家への道のりは、偶然と必然が織りなす、まるで彼自身の建築作品のようなプロセスを経て形成された。家具職人の父のもとで幼少期を過ごした彼は、自然とものづくりへの情熱を育みながらも、アートスクールでの経験を通して建築という総合芸術に魅せられていく。
しかし、建築の道を志す彼を待ち受けていたのは、父親からの厳しい反対だった。建築の勉強のための資金援助を断られたズントーは、一旦帰国し、歴史的建造物保存機関で10年間勤務することになる。
この一見回り道とも思える経験こそ、ズントーの建築哲学の根幹を形作ったと言えるだろう。スイスの農村風景に点在する古民家の調査を通して、彼は建築が単なる構造物ではなく、そこに住まう人々の生活、文化、歴史、そして土地の記憶を内包する存在であることを深く理解したのだ。
現象学的建築の体現者:五感を覚醒させる空間体験の創造
ズントーは、機能主義や合理主義に偏重したモダニズム建築へのアンチテーゼとして、人間の身体感覚や感情に直接訴えかける建築を志向する。彼は建築を「空間、素材、光が織りなす、人間の五感を刺激する現象である」と捉え、そこに生まれる「雰囲気」こそが建築の本質だと説く。
代表作「テルメ・ヴァルス」は、重厚な石造りの空間、肌触りの異なる素材、静寂と音響効果、そして時間と共に変化する光と影の演出を通して、訪れる人に意識的な没入体験をもたらす。ズントーは、「雰囲気」を数値化や言語化できない、身体的な感覚によってのみ認識できる、場所が持つ固有の空気感や存在感だと定義づけている。
場所性の再解釈:歴史と自然との調和が生み出す、新たな空間叙事
ズントーは、「建築は、その場所の記憶と対話し、新たな物語を紡ぎ出す行為」だと説く。彼は、建物を設計する際に、歴史、文化、風土、地形といった既存の文脈を深く読み解き、尊重しながら、建築という新たなレイヤーを加えることで、場所の潜在的な魅力を引き出そうとする。
古代ローマ遺跡と現代建築を融合させた「コルンバ美術館」は、彼の場所性への解釈を象徴する傑作と言えるだろう。遺跡を包み込むように配置されたコンクリートの壁面は、過去と現在を隔てるのではなく、むしろ対話させることで、新たな空間叙事を創出している。
素材論:物質を超えた記憶と対話する、触覚的な建築言語
ズントーは、素材を「建築の言葉」と呼び、その選択と使い方に並々ならぬこだわりを持っている。彼は、素材を単なる建築材料としてではなく、歴史や文化、職人の技術、そして触覚や音響といった特性を深く理解し、建築空間に統合させることで、物質を超えた対話を試みる。
「聖ベネディクト教会」は、地元産の杉材を構造体から内装材まで使用することで、木目の美しさ、柔らかな触感、温かみのある色合い、そして静寂の中に響く木の音を最大限に引き出し、神聖で瞑想的な空間体験を生み出している。
光と影の演出:空間を彫刻する、非物質的な建築要素
ズントーは、「光は空間を定義し、感情を揺り動かす」と語る。彼の建築において、光は単なる照明を超え、空間を彫刻し、雰囲気を決定づける重要な要素として機能する。
「コルンバ美術館」では、コンクリート壁面の隙間から差し込む自然光が、古代ローマ遺跡をドラマティックに浮かび上がらせる。光と影のコントラストが織りなす空間は、時の流れと歴史の重みを強く意識させる。
沈黙の建築が提示する、未来への可能性:美と倫理の追求
ズントーは、近年の建築における美の喪失を嘆き、建築家が経済的圧力や効率性重視の風潮に屈することなく、美と倫理を追求すべきだと訴える。彼の建築は、華美な装飾や奇抜な形態ではなく、素材と光、空間体験が織りなす静寂の中にこそ、真の豊かさが存在することを示唆している。
ズントーのインド初講演は、彼の建築哲学の真髄に触れる貴重な機会となった。彼の作品と思想は、現代社会における建築の役割、そして建築家が未来に向けて進むべき方向性を示唆する重要なメッセージを投げかけていると言えるだろう。